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2020年 01月 27日
和声学:調和声_新しい音組織への集約
和声学:調和声_新しい音組織への集約

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 和声学には和声の世界の歴史的存在概念を実証的理論的に概念化しようという根源的な思考があるが、その理論体系が飛躍的に発展したのは、いつもそのような概念化がなされたときである。歴史的に考察しても、ツァルリーノがオルガヌムを基底に据えた基本概念を、アランが長短調の概念枠組みを超えた相対的な本質を、イエッペセンが伝統的象徴概念とその存在を概念化した。また、ケックランが人間が獲得してきた実践的で創出的な指針にもとづく調概念のあり方を論じた。それらは、音程の和声論、3和音の和声論、旋法集約の経緯、蓋然性の高い相対的な概念論と復活した旋法作法論、歴史的存在論の現代的な理論と論理の証明として、大きな発展を和声学にもたらしたのである。



________________________________________


* 新しい音組織への集約 *


________________________________________



 以上にみられるように、現代の研究者もまた、すでにシステム論的命題の方法的基盤に身を移し、アイデンティティの検証分析を前提として歴史的存在の技法論を定義している。研究者によれば、現代の教育的アイデンティティは可変的であり、したがってその学習環境的アイデンティティも、教育的アイデンティティの形成に参加するなかで、それと連動することによって絶えず変化してゆくものである。しかし、規則主義者の無根拠や定義矛盾の欠陥規定に惑わされて、私たちは、和声学指導者が、和声学は「簡単に」といって学習者に、事実の明快な評価を許さないパラドックスに直面していることを知っている。歴史上の和声学基礎論およびその学習環境においては、人間活動の主要な対象は外的世界であった。動的な外的世界に対する行為(認識、呼びかけ、検証、分析)を通して和声学は理論と論理を発展させたのであり、そのことによって変化、発展、進化の過程を歩んでいるのだと考えられていた。理論と論理の発展は、合理性、開放性、価値体系への通路であった。このような将来に対する展望(ヴィジョン)の根底にあるのは、人間的実現行為の範囲を「環境世界の再現」にまで拡大てゆく能力への確信であった。そのような事実存在や本質存在が検証分析され定義されるるとは、どういうことなのだろうか。それについて説明しよう。



# by cantus-durus | 2020-01-27 15:53 | 和声学:調和声_新しい音組織への集約
2020年 01月 27日
凡例:和声学

凡例


 p.12 音組織の歴史的変化

 和声の変遷 


凡例:和声学_e0025900_11220046.gif


    Direction1) 「教会 12 旋法」から<教会 2 旋法>の集約を経て、「旋法の多様化」にいた
           る歴史的な経緯を把握しよう。

            左ページ、音組織_の項、下方向の ↓

               音組織の数は、
 
                      多 (中世)  
                      ↓
                      少
                      ↓                     
                      多                  
                         に変容する
 
    D2) 3和音と7の和音の和声素材があらわれた時代様式を答えなさい。

            左ページ、音程・和音_の項、下方向の ↓ 上から3番目

    D3) 和声作法の<対照的和声構成法>。

            p.29

                譜例 10.
   
                 ↑ 
               モーツァルトはこの伝統的な対照的和声法によるシステムを
               見つめていたことがその和声法の分析から判る
                 ↓

    [ N.B. ]

            下巻 p.71

                譜例 261. 263. 264. 265.



    Question1) 段落・終止法における終止和音に< 完全3和音 >が用いられるよう
           になったのはいつ頃か?

            右ページ、段落・終止法_の項

    Q2)  中世における音組織「 教会12 旋法 」がそのまま復活するのはいつの時代か?

            右ページ、和声作法_の項

    Q3)  印象派の和音構成法の中で、あなたにとってすでに響きが判っている和音素材
       はどれか?

            左ページ、下方向の↓ 上から4番目_
                 和音構成法の多様化_の中にある・4つの和音素材



 教会旋法と和声法 


    教会旋法と和声法 p.14


    D1)  教会旋法がオルガヌムに始まるポリフォニーとホモフォニーの中でどのように変化し
       ながら生き続けたのか、その過程をたどってみよう。その歴史的・実践的存在は、と
       りわけ古典派和声の一般原理に関わる理論や論理に欠くことのできないものである。


            要点となる事項:

               旋法性

               音階的な概念をこえた特有な表現方法

               トニックとドミナント

               変化音としての変ロ音


    D2) 15行目「各旋法には、... グレゴリオ聖歌の教会調は分類される」を理解しなさい。
    D3) 15 世紀の和声における新しい傾向を認識しなさい。

               フォーブルドン

               旋法和声が頂点を極める 16・17 世紀の和声法

               旋法の2極化

    D4) 2極化の要因となる伝統的な和声法に注目。


               旋法和声を滋養としながら成長する 18 世紀の調和声

               フーガやソナタなどの和声的骨格

    D5) 教会旋法の復活。

               旋法作法

               新しい調概念


    D3)  p.13 には教会旋法と和声法との関係についての概略が実践および理論用語で示して
       ある。



 教会旋法の推移 

    教会旋法の推移 p.16

    D1) 教会 8 旋法の名称を答えなさい。

            左ページ、教会 12 旋法_の項、Ⅰ〜Ⅷ

    D2) 中世-教会12旋法の tonic と dominant との音程の違いがある。
            左ページ、教会12旋法_の項、Ⅰ〜Ⅻ _における白音符
                / 下方が tonic、上方が dom.

    Q) 印象派の音楽において、以前には存在しなかった旋法があるが、その名称は?

            右ページ、旋法の多様化_の項、下から2番目の旋法



 音程・和音表記法 

    音程・和音表記法 p.18

    音程表記法

    集積音程表記法

    和音表記法 p.19

    和音表記法について


          西洋に存在した伝統的な 和音表記法 と 調名 を採用する理由


    a. 通奏低音法


< 和音の転回形について >

 歴史的にみて、旋律的・和音的な和声構造性に対する認識は、なにもバロック・古典派あるいは近代・現代になってようやく始まったものではない。和声の起源以来、いかなる時代のどのような様式の音楽であっても、水平的・垂直的な表出目的と美的感覚は音楽全体を通してつねに意識されるものであった。ルネッサンス時代に見られるすべての実践とその作品は、3和音の響きがもたらす種類上の音響効果_和音の種類変化を、さらに異なる形態上の音響効果_和音の転回形(枠内のカッコに示す)_を表出しようとしている。
 例を挙げれば、 15 世紀の「低音5度下行の導音カデンツ(譜例 33. 〜 36)」では、つねに基本形の和音が用いられたことから、和音形態の変化がすでに認識されていたことが考察される。また、 16 世紀_ 「18 の異なる組合わせとその配置」を用いた G.P.da パレストリーナが、彼の多くの合唱曲において、「転回形という和音形態による響きの違い」を実践したという歴史的事実はよく知られている。ちなみに、通奏低音法に関する文献、そして和音の形態に関する表記法が体系づけられたのは 17・18 世紀以降である。


    b. 和音記号 p.20

          シンボル:

               ローマ数字_大文字と小文字

               °  7°  +  +7

    c. コード・ネーム

    Q) ( )m7 と ( )m7-5 および ( )dim の和音性質の違いは何か?

          次に示した個々の表記を、
          左端枠の 和音の種類 および 和音記号 と照らし合わせる

               ( )m
               ( )m-5
               ( )7
               ( )m7
               ( )m7-5
               ( )dim


    ( d. 音度記号 ) p.21

          ローマ数字の大文字をすべてに用いる表記法

    D1) 音度記号と和音記号の表記法の違いに注目。

    D2) 下巻のトレイニング・プログラムにおいては、属7、短7、導7、減7、そして長7の和
       音を頻繁に扱うので、< 3 方式によるその和音表記法 >を確認する。


     和音の読み方   p.20

          英式の読み方

    D1) Dm7-5 を英式の読み方(英語名)に注意。

    D2)  Ⅱ Ⅶ゜ 7゜+7 の和音記号を日本語名で読めるようにしよう。


     調名の読み方   p.21

               右枠の 教会調 と 長・短調 の読み方に注意



# by cantus-durus | 2020-01-27 15:51 |   凡例       
2020年 01月 27日
連続8度
連続8度
連続8度_e0025900_12251811.gif


 有効性・客観的事実
 前章「連続5度」では中世オルガヌムから論述をはじめて、おおよその論議をこころみた。だがそれというのも、日本の和声学でいま構築されている理論体系の情報がもたらす社会的・文化的影響を明らかにするための指摘にほかならない。和声学の理論体系・情報網は、多くの検証データが瞬時に伝達される通路である。和声学の歴史においてこれほど幅広く長い全方向通路はこれまでに存在しなかった。それは土着性・閉鎖性そして技法否定や存在喪失の暴力的指標をなくすきわめて進歩的な国際化・情報化なのである。歴史的存在についての検証データによって学習者は、情報を交換し、論議を交えるが、そのとき必ずデータの「意味解釈」というプロセスが入る。枠組設定も概念規定も同じことで、だからこそ程度や常識をはずれた歪曲・曲解も生まれるわけである。
 和声に関する規則論は、たとえそれが限定禁則規定であったとしてもけしてそれ自身が和声であるようなことはない。指導者や学習者のなかには自らの関わる分野の限定禁則を当然とするような「狂信的な態度」がよく見られる。しかし、それは私たちがここで論じているような事実確認とはまったく違ったものである。まず、指導者は大作曲家たちの技法を寄生的なものとして拒絶する。また、その指導者に教わった学習者は大作曲家の技法を次のように言いながら否定する。「バッハやヘンデルなどは自分の考えた和声が何も分かっていない。自分が創ったものについて何も知っていない。それが例外であることさえ理解できていないのだ」。さらにまた、その限定禁則の規定は、バロック・古典派の作曲家には限定禁則的な思考はけしてできないものとずっと思いつづけ彼らを理解する努力さえ怠ってきた。
 この失敗を防ぐためには、何らかの対策をたて、和声学という名のもとに、技法解釈や書法解釈が事実上フェティッシュ化している指導者たちの勝手な解釈を封じ込めるというとっておきの方策がある。本来和声学とは音楽教育を中心とした「論議」という「場」での事実確認のことである。論議の場に参加する学習者は、西洋バロック音楽の演奏を楽しみ、古典派音楽の和声の動的な本質と構造を理解してその限定禁則にとらわれないそのあり方を学習仲間と確かめ合う。このための行動が「論議の場」なのだ。論議のテーマは数々の対象との実践的な交渉でもある。判断能力を備えた学習者は、実在を語ることによって和声に心を通わせることができる。
 和声学において、命題である連続8度についての定義は、それを実際に使用したとき、有効な結果や帰結を生み出すか生み出さないかによって決定されると考え、有効性をもって客観的事実つまり普遍妥当性をもった知識とみなすような考えがある。このとき命題の連続8度は、命題がおかれる文脈に応じて、その有効性を発揮するかしないかであり、発揮すればその禁則規定は誤であり、発揮しなければ禁則規定は妥当とされるわけである。

      命題の示す思考は、実際に和声として「機能」させてみて、はじめてその有効性が分かると考える。西洋古典
     音楽_スカルラッティ・モーツァルト・ベートーヴェンのピアノソナタの演奏活動のなかで、私たちは連続8度
     は和声としての有効性を保持する_という客観的事実を当然のこととして心得ている。

 さらに音楽鑑賞では、実際上の必要から、名曲を聴きながらその素晴らしい感覚と創造性を語る人々の一致を共通感覚とみなしている。音楽活動では、こうした見方が有効である。とすれば多くの人が正しい自然な判断を共通にもっているのだから、規則主義者たちが一致しているという状況だけで、ただちにそれを禁則と規定してはならないであろう。
 「連続8度」はこのように、さまざまな意味で定義される。それは何であるかという問いに対して、このような多くの答えがあることは、その理論用語の指し示す概念に、さまざまな次元のあることを示している。それを認めることは、決して連続8度を禁則にする規定を認めることにはならない。 むしろ、その事象現象の真相が禁則規定ではとらえられないことを示している。


 和声の大統一理論
 さて、この和声の世界の発展を引き起こす有効な連続8度技法はどこから来たのだろうか。それを次に、和声初期の実体性という観点から眺めてみよう。
 しばしば「実在する存在からの教示」という言葉で定義されるように、それは「人間の思考=本性」に根ざした技法であって、実在検証をともなう分析によってのみ把握することが可能な一般原理にほかならない。したがって連続8度技法は,あらゆる音楽的歴史的な存在に先立つ技法の技法であり、すべての人間にとって同一のものと考えられる。この技法の源は近くはバロック_モンテヴェルディ・バッハ・ヘンデルの和声に求められる。古典派_ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの和声においては連続3度・6度、連続5度技法と同義に解されたが、ロマン派時代になるとシューマン・ブラームスらによって新しい角度からとらえ直された。彼らは技法の効用的な実践能力を実在検証を備えた人間だけに限るとともに、和声構成や音楽形成の思索にその技法の根底を求めた点で前進的であった。このように連続8度技法は和声学が前提とした全時代にわたり、技法と基本的基準を支配する高次の安定した美的価値体系であったが、規則主義者が規則論の考えに基づいてそれを禁則と規定するに及んで、これに追従する指導者や信奉者たちからも情動的俗説的な批判を受け、 20世紀後半に一旦は排除されたかにみえた。しかし、今世紀に入ってこの技術知は時代的要請もあって当然のように復活をみた。いうまでもなく技法否定は、人間にとって存在の喪失を意味する。
 当然のように、人間はいわば西洋音楽文化からの贈りものであるこの存在を、自分が考えたもの、自分が判断したものと思いあやまり、根源の実在(事実存在)を忘れてしまう。ルールのあり方さえも、自分の判断によって操作できるもの、単なる実習の一手段だと錯覚する。このような意味での「実在忘却」は、人間にとって「存在の喪失」を意味する。
 日本の和声学の歴史の上で「規則論」の時代と呼ばれるのは、この「実在忘却」の時代、「存在喪失」の時代にほかならない。この規則論の克服は、規則主義者が検証結果や分析資料を排除したように、また概念枠組において「和声 理論と実習」の著者が企てたように「例外的なかたち」で概念化されるもではない。

      そして規則主義者は和声学の内部で、規則論を逆転する「誤りを正しく直すこともせず、それまでとは反対の
     こと_禁則を盲信したあなたが間違っている_ゆえに、禁則を活す、試そう_を言う」以外に、存在喪失を脱す
     る逃げ道を見いだしえなかったのである。これは逃げ道を見いだす方法論の終焉そのものである。

 規則論の時代、実在否定・存在喪失の時代に、私たちにいったい何ができるのか。失われた実在、その力と輝きを検証して手元に引き寄せ思索することだけ、とかつての学習者は考えていたようである。彼らの大作曲家の和声法への強い関心は、そこに結びつく。「何が思索を促すのか」「何のための大作曲家の和声法なのか」。だが、和声の存在を思索するのは学習者だけではなさそうである。真に思索する和声学もまたそうであると理論家は言う。
 将来の和声学はもはや規則論ではない。それは和声学の別名となってしまった規則論よりもっと根源的に思索するからである。この和声学は、それがあるかぎり、歴史的存在概念つまり実在の検証であって、それ以外のなにものでもない。実在によって実在の観察者として投じられ、そのために必要とされているのであるから、この和声学は実在に属しつつ実在を思索するのである。
 こうした思索が具体的にできることといえば何であろうか。和声学は実在を集めて明快に語る。ちょうど、壁画が大聖堂の壁画であるように、実在は和声の根源的実在である。


 事実認識のサポート
 規則禁則いわゆる原則は常に普遍であることが確証されたわけではない。それは、事象現象の歴史的経緯と生成過程の検証を注意深く行なうことによって、実在_バロック・古典派・ロマン派和声_の実体概念と合致しない原理的に解明できない非歴史的な制約という禁則が、どれほど不確かなものであるかはすぐに判ってくるのである。和声学はつねにこの「問い」を問い続けてきた。
 もしこの問いに、明確な答えが得られるなら、中世・ルネッサンスから現代にいたる和声的実在を「根本的」に動かしていたものが何であるかを、理解することができる。
 だが、和声学は実在とその分析データとの間に整合性のない規則禁則の克服に成功したのであろうか。現代の研究者は、1970 年以降つづく日本的機能和声論における原則の甚だしい論理矛盾、学術によっては規則主義者であり、研究者としては和声と称するイベントにはしゃぐ指導者の衣装をまとった俗説論者たちである。古典音楽の検証に対する伝統の背教であるが、もはや存在概念の包括的な説明ではなく、どこまで進んでも禁則規定というプログラム・ソース、つまり歴史的存在や伝統技法にとり合わない課題実施を、また音楽の常識人の考えからすれば、一種のゲームとしか思えない評価採点をラストカードとしたことにほかならない、とみている。

      屈折した芸術大学や音楽大学の「履修評価」の仕方は、和声の世界を考え活動することに選ばれた偉大な表現
     者たちの意に沿うような思索・技法・書法を扱うものではなかった。のちにみるように、和声学の根本的な改善
     策をもち合わせていないことを露呈している。

 現代の研究者が今世紀はじめに提示することになる存在論の歴史の経緯区分を示すと、こういうことになる。
 創成の時代、つまり実在への誘導や事実認識のもとで、和声学的思考の検証分析が開始される。ところが、かたちばかりのルールのもとで和声学の理論説明および演習が実行されると、「検証分析の否定」が当然視され、「禁則だから古典和声にはありえない」という根拠のない言葉が囁かれる。これは、ある種の「思考停止」ではあるが、研究者によれば、この思考停止はいつまでも基本的前提の領域にとどまる。おそらくその「思考停止」が次第に低落してゆき、結局この否定とその論理は、従来的な規則論の教説のもとで究極的に固定化される。もっとも、和音連結における演習の評価は、1点しか見えない限定、制約、不可の諸事項の遵守。したがって、そのすべての内容が古典音楽と呼ばれる和声の事象現象には不十分といえる低レベルな和音連結に終始する。原則_限定進行という規則でありながら、便法を講じてもうひとつの進行を加えても、この方法では事実認識をサポートすることは不可能。


 実在的機能性
 「ルール依存症は、結果的にそうなってしまうのであって、古典和声の存在を喪失した声部書法のより大きな問題は基礎論の実在検証の放棄、概念認識の環境構造における基本的構図に対する無策にある。そうした和声学は疑わしい規則禁則の作成者ではあってもその克服者ではないのだ」。
 では、検証放棄の時代、基本的構図に対する無策の時代に、私たちは何をすればよいのか。失われた実在が語ることに耳を傾け思索することだけ、と現代の理論家は考えているようである。大作曲家の和声法に寄せる理論家の強い関心は、そこに結びつく。_古典楽曲の分析を続けていると、「連続8度=並進行(連続)8度」は、西洋音楽の構造群を手引きとする実在論の歴史の和声学的現象であることが分かってくるのである。
 研究者の見解によれば、実在概念と並んで、理論体系の構成において重要な役割を果たしているのが、表出への創造的想像力という概念である。この概念は、和声的実在概念の定義で主軸になるものであった。実在の全体の根本性格は創造的想像力である。すなわち実在の全体はつねに現にある表出よりも、より自然により自由になろうと生成しているわけである。であれば、その生成はどこにゆきつくのであろうか。もはや禁則的な目標にではありえない。とするなら「和声とは何かを問う」の意味はどういうことになるのか。その概念化が事実の認識から生起し、検証・分析・総合という定義契機が密接に連動している本来的実在性を場にしておこなわれる概念定義、そこで定義される実在の意味が生成であることは容易に推測できる。それは、すべての現象を現象として成り立たせている、その現象とはどういうものかを問うことである。もっと分かりやすくいえば、「和声として存在するあらゆるもの」、つまり「和声とされるあらゆるもの」をそのように和声として成り立たせている実在とはどういうものかを問うことである。だが、この問いが根本の問いだという実証和声学の主張は果たして本当なのであろうか。


 伝統技法の事実存在
 たとえば、和声の世界のなかで、中世・ルネッサンス、バロック、古典派、ロマン派の和声にみられる「並進行(連続)5度」のように、「並進行(連続)8度」という事象現象は、西洋古典音楽の本質・仕組みにおいて_始原の存在、象徴的事象や様式に本来そなわっている性質、つまり和声空間を象徴する「多目的機能システム」であることが、古典和声の検証分析によって明らかにされているのである。この並進行(連続)8度の単位は、一時的・断続的・単体的なものだけでなく、継続的・段階的な、声部変換を伴う敷衍によって構造化されたりもする。
 このように、並進行(連続)8度と機能とは、和声が生成される以前から全体としての和声そのものの根源的現象として捉えられており、しかも、その機能は_何であるか_の、並進行(連続)8度は_存在しているということ_の実在を支える伝統的で有効な技法としてとらえられている。

連続8度_e0025900_14165843.gif

 特定対象の検証もなく、「存在証明ができなかったもの」については沈黙する必要があるという論理をも含めて考えるなら、_もっとも非理論的で過激な規定であるし、「禁則規定」は、設定者自身が著書「和声 理論と実習」 の巻頭言において、その観念論的な性格を吐露し、そのゆえの失敗を認めているからである。
 したがって、西洋古典音楽の文化社会においては大作曲家には_連続8度は禁じられる_つまり禁則の認識はなかったのであり、当然それを遵守することも、妄信することもなかった。いずれ判るように、禁則の認識がないのは必ずしも作曲家ばかりではない。理論家・音楽学者もそうであった。しかも彼らは、たとえば、必要であるなら「禁則を破る」という、無骨で、ぞんざいで、しかも意味のわからない考えはもっていなかった。そもそも、西洋音楽の歴史にはそれが禁じられるという文化は存在しないのだから。
 もともと現代の和声学は、「連続8度技法」の課題を「和声学的存在論」と呼んでいる。その場合の「和声学的」、また「禁則規定の和声学的解体」といわれる場合の「和声学的」ということで、「実体的存在論=禁則」がいったい何を意味しているのか、これをごく簡単にみておきたい。


 禁則をとり払うテクノロジー
 「和声学」が実在検証によって証明された実体的認識であり、若い世代の理論家によっても受け継がれ新たに展開されたといったことについては、知る学習者も多い。ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェンは先人たちの広範で多様な知的活動の過程・方法・成果を熱心に学び、どのような「音楽体験」をしていたのか、昔もいまも学習者は、彼らが実在するものへ直接立ち向かい、その総力を挙げて獲得できた資料や理論、さらに、彼らのようなすぐれた「聴感覚」がもてるようになりたいとそう願って、「和声を学ぶ」のである。「和声学序説:一般原理」でも述べたように、この連続8度技法一般については、それはいまや和声の法則として認識されるようになったが、それが命題としているものは、和声学の端緒からすでに概念化されていたものである」。
 しかしその観念とは実在的なものではない。したがって内在論にあっては、和声実習の場においてさえも本質的に西洋古典音楽つまり「J.S.バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの和声は存在しない。このことは、明らかに、理論解説には必要な特定音楽との不整合であり、頭上に掲げた テキスト「和声 理論と実習」がもたらす禁則規定とそれとは矛盾している、ということを意味するものにほかならない。もっとも、なぜ、「 “禁則=してはいけないこと” を活かす」_という説明になるのか、_検証不足で前のめりな規則主義者はそれを明らかにできない。その説明に際して、命題の歴史的順序や事実存在を歪曲した言動が右往左往するのであれば、それは説明者の矮小なパーソナリティによるものであって、とりたてて理解してやる必要はない。言うがままにさせておけばよいだけのことである。だが、だからといって、日本人的情動や内在論が「嗤い」ですまされてよいということにはならない。妄言の領域と理論解説の領域はまったく異なる。理論解説に関わろうとするなら、解説が単に妄言だけで動くものではなく、固有の歴史観および道理に合う言葉の備えがあることを分かる必要があろう。


                  詰屈した「禁則を活かす」の言葉は

     和声学では「伝統技法 - 連続8度を用いる」と言いかえるのが普通である

_ この方が分かりやすい _


連続8度_e0025900_14424339.gif


 大作曲家の思索によると、和声の創出において並進行の必然性に想いをめぐらすときのその「並進行(連続)8度」というのは、音楽的歴史的な和声(オルガヌム、コンドゥクトゥス、フォーブルドン、マドリガル、4声体コラール)の示す並進行、つまり伝統技法としてさまざまに機能する「事象現象」に同調し、それに「調和」しつつ、そこにつつみこまれて存在することにほかならない。


      「禁則規定は音楽と共存できない」「技法否定の実習は貧困である」

           「人間の思考構造 - 連続8度技法は和声形成的である」


 大作曲家は、「連続8度が古典音楽のなかに現れ出ているということ、古典音楽の輝きのなかに連続8度が和声として機能しているということ、まさしくこのことが聴く人の心をとらえた」のであり、このことが聴く人を思索に駆り立てたのだが、その思索は、自然な音楽とその和声のなかで生起しているその事象現象をひたすら畏敬し、それに調和し随順するということだ、と考えている。そうした証拠はいくらでも提示できるが、「並進行(連続)8度」という表出の主題、つまりその視点から和声の全体を生成するという構想はけっして放棄されていない。いうまでもなく並進行(連続)8度に関する歴史的概念と音楽理論は_実用化_されていたのである。したがって、和声の展開についてのこの時点での構想_その和声観は、いわゆる西洋音楽のどの作曲家の思索においても、ほぼそのまま保持されることになる。


存在証明の必要性
 現代の理論家が、第一義的に「大作曲家たちの和声表出」に耳を傾けようとするのはこのような理由からである。理論家は、和声学の理論体系を構想したときから、先にふれた並進行(連続)5度と平行して、連続8度の構造化を主題とする次のような一連の検証分析を進めている。

    「何のための大作曲家たちか」
    「概念形成の道筋において」
    「古典音楽のなかの伝統技法」
    「連続8度の本質」
    「歴史的存在」

 とりわけ「なぜ連続8度が存在するのか」では、J.S.バッハやヘンデルの和声を論じている。西洋音楽において「連続8度が禁則でなかった」ことはうかがわれよう。理論家の伝統的な技法の解釈は、過去のあるときに規則主義者たちによって不正だとか禁止されるとか、それはあり得ないものだと決めつけられたが、今日では和声学を大きく進展させた命題であるという評価を受けている。理論家が採りあげるのはルネッサンス音楽のそれだけではない。先に述べた「どのような連続8度の表出か」ではバロック_モンテヴェルディとD.スカルラッティ、「歴史的存在の記憶」ではJ.S.バッハ、「一般性のある表象と働き」についてはヘンデル、そして古典派_ハイドンの和声を採りあげて論じている。こういった有効性は何も言葉で記述するまでもなくすべて耳を通して理解できることである。並進行についての個別の論議ではないが、現代の音楽理論家は、すぐれた表現者であるモーツァルト、ベートーヴェン、また、R.A.シューマンとブラームスの連続8度技法についてのその構造を透徹したものとして高く評価し実用化している。

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 だが、連続8度を記憶するのは大作曲家だけではなさそうである。真に思索する者もまたそうである、と理論家はいう。


      現代の思索はもはや連続8度は禁則ではない。それは禁則の別名である_してはいけない_よりももっと根源
     的に思索するからである。この思索はそれがあるかぎり実在の記憶であってそれ以外のなにものでもない。実在
     によって、実在の本質の究明者として和声の世界に投じられ、そのために必要とされているのであるから、この
     思索は実在へ奥深く足を踏み入れ実在を思索するのである。

 さて、そこで「並進行(連続)8度」がもつ機能的で強調的な概念をはっきりさせるために、大作曲家のそれに対する考え方について実在検証を加えていくことにしよう。


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 古典音楽の和声観
 和声学の重要な命題の1つに、西洋音楽_バロック時代における並進行(連続)8度の技術論がある。連続8度書法の問題は現代の理論家にとって大きな関心ごとであって、一連の和声理論における「一般原理」においても、折にふれて「書法」の音楽的本質について言及し、その譜例の一部を提示している。
 理論家は、「連続8度書法」が「音楽制作」の伝統的な技法として、また「和声の事象現象」が「連続8度」を存在させるものとして考えられていた中世・ルネッサンス時代にまで遡って「書法」の本質を捉え、それが「バロック・古典派・ロマン派和声」へ、さらに20世紀の巨大な「書法認識」に変化・発展していく経緯を問う一方、「並進行(連続)8度書法」という歴史的存在概念から「音楽制作」の本質を、また「音楽制作」の本質から「並進行(連続)8度」という歴史的存在概念を解き明かそうと試みている。



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 この「重複」を検証してみると、_書法の照合はのちにふれておこなうが、その歴史的存在にあたる「並進行的事象現象の表出」がやがて拡張されて「連続8度と連続5度の結合」に、そして、その形態論的特性が「連続8度と連続5度の合成」にまで発展したことは一目瞭然である。

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 「連続8度」がこれほどにも広範囲な影響を及ぼす存在になったのは、まず「D.スカルラッティの和声」であろうが、それに次ぐのは「J.S.バッハの連続8度の和声」ではないだろうか。この実践構造は、バロック前期に実践されたその様態を広範囲に敷衍したものである。バロック後期の実践は「並進行は1つの和声的要素であるを念頭において表出されたもの」である。
 並進行の顕著化したバッハの和声におけるこの表出は、その様態をさらに高次形態に高められて実践されたが、それは単にスカルラッティの実践にとどまるものではなく、いわゆる次世代の古典派_ ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ロマン派_メンデルスゾーン、シューマンとブラームス、そして、20世紀_C.フランクによる絶妙な書法をかなり明確に具現化してみせたものである。古典派以降のそれを検証する前に、J.S.バッハとヘンデルによる「声部書法_連続8度」の実践構造を確かめてみる。

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 実践構造とシンボル機能
 和声の世界とは、さまざまな実践構造を相互に関連させることによって構成される高次の実践構造であると言えよう。このようにさまざまな構造をさらに高次化する働き、それぞれの関係をさらに高次の関係のもとに関係づける重要な働きを、和声学の領域で「シンボル機能」と呼ぶ。和声の世界とは、言い換えるとそうした実践と機能によって構成される「シンボル体系」のことなのである。先ほどふれた古典和声の実在概念および創造的想像力とは、人間の思惟と問いかけがそのような「和声の世界」という構造を構成し、それによって立ちあらわれる存在のあり方、存在の仕方を指す。
 したがって、「実践構造=連続8度は_禁止される」という原則規定は矛盾である。気がついてみたら、伝統的で本来的な存在のあり方と仕方に対して、このような非実在的な規定、つまり「禁則」という実在の存在論的証明を拒絶する「奇妙な視点の設定」は、ながいあいだ実在性_バロック・古典派和声の「シンボル体系認識」をゆがめていたのである。

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 連続8度の歴史を相対化して思考することを可能にする広い視野を、いったいモーツァルトはどこから手に入れたのだろうか。おそらく作曲の規範としたハイドンの和声からであろう。それが青年時代のモーツァルトにとって重要な手本であったことは、よく知られている。彼はそこから、「過去のイタリア・フランス和声」をまで見通すハイドンの卓越した視野を学び、そのなかでJ.S.バッハ、ヘンデル以来の連続8度の歴史を認識してそれを実践したにちがいない。

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 してみれば、モーツァルトが「連続8度とは何か」という思索こそ創造を貫く命題の基本の思索と考えていたのも、けっして誇張ではないことになろう。モーツァルトは、ピアノ曲、交響曲、ときには即興演奏において、伝統的なこの基本的命題を実践しようと企てるのである。ハイドンも「連続8度の実践」を「未来に向かって“反復”すること」考えているが、モーツァルトにあっても「連続8度の実践」とは、自分のおかれている歴史的状況を直視ながら、「かつて存在していた実在の可能性に“応答”すること」であった。

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        この最終楽章には、「並進行(連続)8度の和声現象」が頻繁に現れる。

                ・ 第 50 小節 〜 53 小節
                ・   101    〜 102   
                ・   210    〜 211   
                ・   227    〜 228   
                ・   261    〜 262   
                ・   319    〜 320   
                ・   399    〜 402   


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* 存在概念 - 伝統的な書法継承 *



 モーツァルトに続くベートーヴェンもまた、「連続8度は禁止された事象現象ではない」という命題をもち出し、「連続8度の和声法とは何か」という命題に1つの答えを出している。
 ベートーヴェンの和声法_「連続8度」は、絶妙と評してよいほど深く鋭い。ハイドンやモーツァルトはもちろんだが、先行する時代の「シンボル体系となる連続8度」のように、これまであまり意味の読みとれなかったその和声法が、ベートーヴェンの思考によって、時代の音楽状況や並進行の歴史の存在、連続的・段階的な敷衍を通じて、それに他のさまざまな和声法と関連させながら構造化されると、実に明確にその意味が浮かびあがってくるのである。



        敷衍:
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        声部変換を伴う敷衍:
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* Contents _ Excite_https://factum.exblog.jp/



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 むろん今日からでは考えにくい、「連続8度は禁則」の判断しかないような_ テキスト「和声 理論と実習」にも共通していた_従来の無批判・無論議の和声学分野の特殊な状況も考慮に入れる必要があるだろう。しかし、「連続8度だからあり得ない」と頭から決めつけるのではなく、「第1級の偉大な古典和声の分析結果と整合性のない禁則規定」が何であったのか、を考え、J.S.バッハ、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェンの和声_その和声形成を支える「伝統技法いわゆる連続8度」の問題を理解してみる必要があった、ということである。

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 大作曲家によってこれだけ意図的に、ヨーロッパ伝統の連続8度の実践構造を突きつけられると、明らかになるとも多い。その事実存在が、他の事実存在とつなぎ合わされることによって判然としてくることがある。
 F.ショパンおよびR.A.シューマンは、「連続8度」が「並進行」のヴァリエーションとして、また「連続8度」が「並進行」の重要な象徴概念として考えられていた中世音楽にまで遡って和声法の本質を捉え、それが「バロックの連続8度」へ、さらに古典派の無視できない命題的な和声法_連続8度へ変容していく経緯を認識する一方、和声法の本質から創造性の本質を、また創造性の本質から和声法の本質を問い明かそうとその実践を試みている。



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 「和声学的環境」のあり方も同じ事態に結びつく。そのあり方とは、和声学が原則規定を「分析データとの整合性」を思索して「歴史的・実践的実在」という視点を設定し、そこから自らが置かれているその規定を見直すことである。人間が和声という環境のなかで出会うのは、熟練した技法であったり、有効な組み合わせであったり、その時々の環境内での機能の布置によって決まってくるそれぞれ特定の意味をもった機能の複合体であるが、和声学はその「環境」をじっくり考え「実在」という視点に立つことによって、自からが出会うすべてのものを、「実在するもの」として、つまり「実在しているとされるすべてのもの」として定義することができるようになる。それは従来的な規則論をのり超えた「和声学的環境」のあり方なのである。

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 連続8度存在と古典音楽存在の等価性
 必然的という和声の構造的な性質は、まず連続8度が始まりである。そして、連続8度が、音楽の種別・様相によらず制作されているということだ。この事実はすでに中世のシンフォニーによって証明されており、名曲ブランデンブルグ協奏曲・ベートーヴェンのピアノソナタがその存在を物語っている。つまり、古典音楽が存在するところであれば、様々な思索から創造的に表出されたヘンデルおよびR.ワグナーの連続8度も、同じ機能(働き)をもって響きわたるのである。
 和声の種別や時代的様相によらず、すべての連続8度が制作、存在するという必然的性質のため、和声学において次のような概念が定義される。

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 いま、古典音楽の検証と分析によって認識されたデータのなかにある並進行(連続)8度を考えよう。このようなデータに依拠した問いかけを実証研究という。連続8度は、データのなかの様子だけからは、そのものがはたして和声学の理論の場でまもなく恐るべき禁則という運命を迎えようとしているのか、それとも、古典音楽の響きの場から隔離された「禁則地帯」にぽつんと置かれたデータのなかにあるのか、まったくわからない。なぜなら、由来証明がなければ事象はそのまま宙に浮いているし、単にその現象だけをとりあげれば現象は音楽とは無関係にひとり歩きをするだけで、決して古典和声=実在和声に近づこうとしないからである。
 データのなかの古典音楽のすべての連続8度が、禁則になるというこの状況は、今日では和声学上の定理ではなくなった。身近にある情報媒体で古典音楽の内部構造が分かるようになったからである。大作曲家の考えも楽曲も、跳躍する導音進行も、いや古典音楽の全体像も、検証と分析に依拠したデータと同様に、私たちに向けて証明しているのである。禁則との違いは、実在と密接に連動しているため、禁則の中心めざしてむやみに暴走しないないだけのことである。したがって、並進行(連続)8度は禁則ではないのである。

    _「大作曲家11人の和声法」に提示されたバロック・古典派・ロマン派和声の “連続8度” _

          モンテヴェルディ_
              p.203 譜例 118.
              p.288 譜例 152.
          ベートーヴェン_
              p. 95 譜例 278.
              p.113 《理論演習》 演習1_ 1)
              p.146 譜例 293.
              p.149 譜例 297.
          R.A.シューマン_
              p.197 譜例 313.
              p.197 譜例 314.


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                  * 和声としての存在 *

 「並進行(連続)8度」の和声法は、ネイティヴな_「並進行(連続)5度」_のそれと同様に、古典音楽における作曲家の誰もが享有する職人的良心の賜物である。一般的な和声学における調和声解析のための対象となる実体のある相手、すなわち、並進行(連続)をとり込む創造者たちが志向していた「並進行構造」に対して、歴史的考察のかたちをとっていない禁則という概念規定、あるいはその内容の更新といって括弧付きを参照しながら、しかも、後退的原則主義が意図的に逃げた内部的条件を貼りつけることはできない。なぜなら、実体的概念と実践的連関から引き離されてしまった前時代的な学習者がそれを古典和声の原則、あるいはその基盤となる禁則と信じていたとしても、人間がもたらす創造的想像力をどう考えるか、という問題に直接結びつく論証可能な事実や本質とは限らないからである。要するに、音楽文化社会および音楽教育の現場に存在している「実在の様態」や「一般原理」、つまり「歴史的・実践的実在」を理解できるのは、それが表出する動的な「機能性」と「強調性」ゆえである。人間の素質や能力(可能性)を生き生きと活動させる思考と感覚をもって、音楽の領野に事象現象となって立ちあらわれる必然的な"並進行(連続)5・8度"の働きかけを聴きさえすれば、すぐにも納得できる響きなのである。


 概念の形成過程
 和声学において「従来的な概念定義が以前からうまくいかなくなっている」、とくに「並進行(連続)8度を禁則とした声部書法による和声学の課題と連結評価は参考にならない」と、今日ではこのような概念定義と禁則についての「基礎論_実在検証」の由来が主題的に論じられている。事実を除去した資料に照らし合わせる概念規定(論議)では、現実的で有効な実践的な実在構造は徹底して否定され禁則(誤・不可)となる。かつては、和声の全体を見落としたのかもしれないと善意に考える一方で、規則が先行する正誤判断にとって都合が悪い分析データであるからわざと考慮に入れなかったのでは、とも疑っていた。だが前にも触れたように、その基本的基準をみる限り、人々に熟知された事象現象の事実究明が脇におかれ、規則主義者が自分の描く構図にこだわったことがすでに判ってしまったのである。そうした構図に合わない事象現象を邪魔な概念として除去する考えは、疑似性にとらわれ、実在の本質的な端緒に立ち戻ることができない「並進行(連続)5度の否定的規定」と「象徴事実の拒否内容」とも一致する。そもそも理論体系の意味は、それぞれの論証的分析資料がもつ概念定義によって形成形態は大きく変わる。
 和声表出の技術的分野で、実在検証と分析を拒絶する限定は「和声学基礎論のために形成される理論体系」となるものではなく、和音連結における「まに合わせの規定」および「便宜的手段」であるにすぎない、という背後的知識は、それゆえ実在概念を構成し、もう一度和声の世界を体験して多様における統一を本質とするものと見るような世界観を見失い、ボトル・ネックとなる。実在検証を放棄し、事実を認めず、事実と食いちがういわば特定対象の部分に内在する局所現象に引き下ろすその病理は、あまりにも根深い_と、現代の理論家は和声的思考の伝統として定着したその様式を踏まえてものを考えているのである。
 この禁則の規定は、実在へ通じる道を見いだせないでいるものに疑問を投げかける認識者がいつもこぼすように、一方では優柔不断で観念的であり、他方では極端に愚直で独断的である。明白な歴史的実在への無関心に加え、大作曲家の想像によって合理的にまとめられた可能性をも無視する。つまり、基本的前提を意味する公理定理で構成された概念の規定でありながら、一般的な原理にあらわれる他の命題を、その公理的方法から与えられた一定の規則に従って証明することがほとんどできない。その説明にしてもすぐ論理はばらばらになり_、ともすれば、野卑になる__。その通りになったのである。
 となれば当然、禁則に追従する正誤判断というものは、すべてそれ自身において、またそれ自身にとって音楽そのものとは無縁のものとなる、そのために、一般原理の発見という目的を自ら果たそうとしないので、それとは反対の譜例が示され禁則の疑義を指摘されると、決まって分析資料の論議から逃避する弁明を繰り返している。しかし、感性豊かな青少年たちは、和声学におけるひとつの時代の始まりと見て、いまでは現に与えられている和声学的環境のうちにありながらも、かつて与えられたことのある音楽環境や、知り得る可能な和声学情報を重ね合わせ、それらを相互に切り換え、そうした次元へ関わることによって、事実を事実として受けとることができるようになった。むろん機能和声論の本筋から逸れてしまう機能離脱_などという一種終末的な論理矛盾に導かれた実在否定の事態だけでなく、一般的な知識の大部分であるきわめて蓋然性が高い概念が、理由もなく規則違反となる実在喪失の不確かな説明と評価に対して冷静である。
 認識の根拠づけにおいて、自明である和声の事実そのものが和声学を望ましくないものにするのではない。理論体系のなかで、検証および分析不十分な限定制約の概念規定が、矛盾する命題が演繹されない無矛盾性が要請される、つまり他の命題の演繹の基礎となる基本的前提を意味する公理となるからである。「元の対象と合致しない公理的概念」は、認識の固定化と均質化を引き起こし、古典和声のただなかで、すでに存在している芸術家のような創造的想像力への存在認識を諦めさせ、多様な実践および美的選択の幅を狭めるのである。学習者たちは、実は音楽的に関心のないものを聴くよう強いられる。彼等はそれに興味をもつようあらかじめシステムのなかに組み込まれており、概念形成における抽象にはそれに代わるものがない。とすれば、私たちの批判は単純に仮説が上から教え込まれていることを指摘しているのではない。和声音楽の伝統性およびその想像力と感覚をさておいて、公理的方法にこだわる短絡的な思考が、常に実在性認識への道筋を遮断してしまう禁則を押しつけてきたからである。なぜなら、そのほんとうの矛盾は、この押しつけに価値がないことなのだ。押しつけられた禁則はその明証性を原理的に表明できる力がない、しかも、禁則は、私たちが生きる音楽文化社会や日常的な思考生活の円滑化を計っている概念とはならないからである。
 ところで、公理から矛盾する命題が演繹されるパラドックス_によって、 21 世紀に入ると、今までのローカルな規格ソフトは和音記号も含め、学術的にその立場は支持できないという終焉宣告に見舞われたが、歴史的・実践的実在を基盤とする実証的研究は、和声学が最も理論的であり論理的であり、すでに自然な実体概念の解明に値する学術学であることを再確認しようとした時代の風潮の中から生まれていた。それは古典和声についての構造認識を明らかにするひとつの立場である。なぜなら、公理論が規則禁則をもって基本的な構造認識を要請しているのに、私たちが経験する伝統的な和声構造システムは、実をいえば禁則の要請に合わせてつくられてはいないからである。また、対象へのミッション活動(聴取・分析・保存)を拒否する限局的な概念は、本来的なロゴスと経験的実在に向けられた視点もなく、現代の社会的な文化活動に関わる人々が思考選択しているような概念ではないからである。こういった衝動過多な概念認識を普遍項とする和声学状況がほんとうにあるなら、所詮、禁則は、すべての時代のその本質根拠を思考しながら可能性を遂行した作曲家や演奏家からコンセンサスが得られない愚問となる。バロック、古典派の音楽作品の和声において、すでに現代の実証的研究では多様で多数の事象現象が検証されているにもかかわらず、人間の能動的な思惟・存在・実践を示す顕著な実体概念を禁則と規定してしまう考えがそうである。


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 どのような理論家も次のような点で意見が一致している。いわゆる「連続8度の構造化」は、古典和声において構造的には個人(作曲家)ごとに相違があって形式的には多様である。そして歴史的には、その構造はどのような時代にもさまざまな形態で「合理的な根源的現象」として存在していたのである。
 実在検証は、対象との直接的な対話によって事象現象の現実的な実体概念を見い出し、その事実の現実性と効用性とを確保しようとするのである。ひとつの構造特性は、当然、事実という基本素材の検証にもとづいて概念化され判断される。このようにして、検証と判断の共同の働きは合理的な経験論に依拠するといえる。現実性と効用性とは、認識の最初にあって判断の材料となるもの、意識に直接与えられているもの、つまり理論が成り立つための条件となっているものである。音楽の世界において現実性と効用性という概念が明らかに存在するものとは、動的な上行志向の構築物_古典和声という実在である。したがって、限定され制約された均質な概念というものは、私たちが音楽文化社会のなかで普通のこととして経験できるものではない。それを考えれば、歴史的実在と人間的能動性をかえりみない判断は、現実的に理解可能な何らの意味をも提供しないということになる。曖昧な概念規定が投げかける問題の解決に対して明確な答えはまだ出ていない。しかし、その答えがどう出るにせよ、和声学の理論体系に変革をもたらすような緊急を要する問題であることに間違いない。何ものにも覆われていない和声の世界は見るからに柔軟で開放的な概念で充たされたものであろう。私たちの必然的な考察から構築される和声学は、可能性が活動する実在についての概念認識の成立と完全に連動している。とするなら、いまや和声学基礎論はあらゆる領域でその根本問題にさかのぼり改めて検証し直すことを求められている。
 基礎論は、さなざまな分節化を受けた諸現象の連係関係から成り立っている。基礎論の一般性として、基本単位をなす部分現象そのものが直ちにルールとなるわけではない。個々の現象はそれらが属する対象と事象全体の構造によってしか識別することはできないのであり、それはけして内圧的な要求から生み出されたものではなく、しかも、正しいという概念定義を示す意味生成をもっているわけではない。ひとつの部分現象であるにすぎない。ところが、検証メカニズムがもたらす命題と取り組むことも不可能な規則化の流れのなかにあると、そうした事実認識への視点は、ひとつの方法に満足するだけで自然な発意性を枯渇させていくのである。しかし、現象を認識するための手段となるものは概念の形成過程における種々の洞察であって、それは対象との実践的交渉や実例リスティングを基盤にして行われ、対象とそれと共通する他の数々の対象との比較をあらわすものである、と考えられている。つまり現象についての認識を成り立たせている原理とは_部分を集めて対象全体を再生させようとするもの_にほかならない。


 何のための大作曲家たちか
 思い起こしてみよう。グレゴリオ聖歌を主題にするオルガヌム、モンテヴェルディのマドリガル、J.S.バッハの声楽的4声体コラール、モーツァルトやベートーヴェンの交響曲を調べてみると、和声の表出法は多元的複合的な構造を有していることが分かる。昔の西洋人のなかには困難を切り開いて、多種多様な表出のために能力の全てを尽くして想像した作曲家が多くいたのである。そうした活動の意味が結果となってあらわれたのが、歴史的実在_「古典和声」といわれるものである。人々が求めているのは人間の精神的・身体的状況と相対的である人間が確かに創造した「和声の世界」を、すでにある「和声法」の助けを借りて、私たちの「手」に取り戻すことである。現代の理論家は、この能力のすべてを尽くした大作曲家についてこう述べている。

      「大作曲家とは、響きをつることによって、自分のもとから逃げ去った規則主義者の気配を感じとり、その気
     配に想いをとどめ、自分と同類の過去の創造者たちの思索へ大きく方向を変える道筋を示してやる人たちのこと
     をいうのである」。

 和声を論述するはずの「基礎論」の形成は、単なる規則禁則の羅列ではそれを実現できないだろう。その「理論体系」を技術知として充実させる面から、概念規定の危機的状況を踏まえ、歴史的実在、実践的実在、そこに展開された事象現象が価値ある資源として注意深い合理的な取り扱いを要すると同じように、事実の還元を厳密に確保する検証と分析のあり方をどうしても示す必要がある。実証的研究も同じ考え方から出発している。今日、和声学の対象との関わりにおいて、概念的思考は立ち後れていること、対象を直接的に把握するという認識方法を含め事実・本質からの概念定義力が弱いことが指摘されている。唯一性の概念規定だけをとらえても、原理全体は動かない。対象となる現象のあるがままを検証しなければ、概念規定の妥当性を失うことになる。検証が私たちに語りかけているのは、対象を構成している現象がどのようなものであるかを問いかけ、それを総合的に説明できないなら、演習における現実性と効用性は確保できない、ということである。和声とは、過去から現在、現在から未来へと変化・発展・進化する歴史的存在であり、人間の思惟と存在とが具現化される実践的存在である。その存在は語りかける力をもっている。しかし、語りかけに値する話し相手がいないなら、それは沈黙したままである。
 いずれにせよ実証的研究が、並進行(連続)8度を拒否する存在と見たり、並進行(連続)8度の表出を内部的規定である手段や道具から出発して捉えたりするような旧態の禁則論に疑問を投げかけ、並進行(連続)8度の現象にひそむ動的な機能性と強調性を和声に「ひとつの世界を開く原理」として認めようとしていることは明らかである。私たちが価値ある芸術作品に接したときの感動は、私たちの存在の奥深いところ、自我の営みである既存の知識に先立つ、いわば直感的な感受から沸き起こるのである。私たちの認識のなかも起きるにはちがいないが、私たちを超えたそうした深みで起きている伝統性と感性との対話を増幅して復原してみせるところに実在検証の本領があるのだとすれば、並進行(連続)8度の「蓋然的な事実存在」と「必然的な本質存在」をとらえ、それをよりどころに、相対的な知を中心に形成されてきた古典和声についての理論構築を再考しようという基本的命題には妥当性がある。実証的研究は、少なくとも和声学的実在検証の完成の時代である現代にあっては、私たちはあの原初の存在、その存在の痕跡、あるいはその存在からの贈りものである現実的で有効な一般原理と繋がりをもっていると考え、古典作品から並進行(連続)8度とは何かを聴きとろうとしているのである。
 してみれば、近現代の、和声学を構築する理論家もこのように思索していたのではないかと考えられるが、西洋古典音楽の「バロック・古典派の和声」や「ロマン派の和声」などを検証すると、話は「連続8度」という概念だけではない。歴史的音楽論、つまりムシカ・エンキリアディスの音楽の基本概念は、すべて人間の実現行為にもとづいて形成されているのであり、それに照らしてはじめて理解可能になると、理論家は主張する。従来的な規則論によれば、規則禁則は、古典和声にはありえないとされた連続5度にしても、おや、そうですかと承っておくしかないであろう4声体書法に登場する限定制約にしても、また存在論的概念の証明に世界最高水準の境位を見るなどと称された規則主義者の教義からしても、西洋古典和声を意味する規定とみなされていた。だが、現代の理論家はこの規定を斥け、「和声学」とは事象現象の検証分析をともなう基本概念、つまり歴史的存在概念の形成にあたって基盤としたのは人間的実現行為であると、それとはまったく異なる視座を獲得するのである。
 では、私たちはどうすればよいのであろうか。私たちは、大作曲家たちが語りかける和声法に耳を傾ける必要がある。もし私たちが実在をことごとく分解し、規則禁則を盾にして、もっぱら限定・制約だけから和声を推し測るという便法によって、その価値ある歴史的存在を失うことにもなる俗説の傍らを通り過ぎてしまうことがないようにと考えてのことではあるが。
 とするなら、「連続8度」の命題を思索することと同じように、どのような西洋古典音楽にも立ちあらわれる「連続5度」という歴史的存在概念についても理解しておこう。



# by cantus-durus | 2020-01-27 15:48 |   連続8度
2020年 01月 27日
調和声_バロック・古典派和声:和声学
調和声_バロック・古典派和声


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* 調和声_J.S.バッハ モーツァルト ベートーヴェン *




 ソースプログラムと音組織 

 ソースプログラムとは、元来は起源的な体系のことである。現代の和声学では、様々に異なった要素・現象などの間に、統一的な視点を設け、水平面上にこれをつないで新しい機能を発揮させる場合、その全体的平面を「オープンシステム」と呼び、その「システム機能」を概念化するためには、各音組織の独自の構造と機能、および各音組織系の関係がどのような「コンテクスト」を有していたのかを検証する必要がある。その検証において、事実に基づく実証的な認識方法で分析することを「システム分析」という。
 音組織にはさまざまなものがある。中世の音楽でいうオルガヌム、ルネッサンスやバロックおよび古典派の音楽でいうフォーブルドン・3度構成和音などは音組織である。音程・集積音程・和音はそれぞれの形態があり、全体は構造的・機能的に連関し合って1つの統一体として音組織をなしている。そして、時代ごとの歴史的実在や作曲家の実践的実在は、それを構成する個々の諸要素が結合し、全体としてその事象現象との間にバランスを保持して存在している。いずれも「音組織」である。


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* 理論の本源的実証 土着性閉鎖性 *


 バロック・古典派和声は、和声の本質をついたというより、むしろ和声学の基本的な前提といったところである。だがこれをシステムのモデルと定め、歴史的存在を検証的レベルでとらえた理論体系とみなしたところに、西洋的思考のテクノロジーの抜きがたい伝統が理解できるではないか。
 もともと、可能性というのは、作曲家と演奏家および聴衆が共感しあい、感覚を確かめ合うための誘因のようなものである。したがって可能性の認識はもちろん状況に依存するのである。いわゆる大作曲家の意図が演奏家の曲解釈にとって、鑑賞する側にとって正しいかどうか、また、例外であるかどうかなど、質問回答するだけ無意味というものだ。
 実証研究による情報理論は、まさにこう言う思考の典型例にほかならない。実証的情報理論とは、「限定禁則の不整合や偽装理論の荒廃を指摘しながら、もっとも効率よくバロック・古典派音楽における調和声を認識・検証・総合するにはどうすればよいのか」という論議である。
 今日私たちに伝わっている調和声、そこに存在したもっとも古い音組織を調べてみると、それは、各教会調が性格を異にする2種の教会調_長旋法(イオニア)と短旋法(エオリア)_に集約され転化する。18 世紀_J.S.バッハの和声構造とはまさにこういった様式特性にほかならない。バッハが追求した「新旧の音組織(長短音階と教会旋法)」を自由にあやつるシステム、それによって形成される調概念は、後期バロック・古典派の和声を代表する象徴的な実践構造とシステム機能であり、そうした諸音組織に基づく合理的な結合・分離・融合が「和声の創出」を成功させている。



# by cantus-durus | 2020-01-27 15:42 | 調和声_バロック・古典派和声
2020年 01月 27日
旋法の2極化/J.S.Bach:調和声_バロック・古典派の和声
旋法の2極化


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* Summary _ https://www.google.co.jp *



 J.S.バッハが調和声の世界における最大の作曲家だということについては、ほとんど異論はないであろう。1700年代以来約1世紀半にわたって多方面に及ぼしたその圧倒的な実践力は、いくらバッハの和声を嫌う人たちも認めざるを得ない。ドイツ古典和声の18世紀から19世紀にかけて、つまり18世紀においてはモーツァルト・ベートーヴェンに深く結びついた古典派和声が、そして19 世紀においては古典派和声のさらなる拡張されたものとして登場してきたロマン派和声が、それぞれJ.S.バッハの試みたさまざまな事象現象を和声的可能性の源泉(はじまり)とみなしてきた。
 このバッハの和声の存在は、古典和声における基本的な理論体系を理解する上で重要な意味をもつ。言い換えるとそれは「和声をつくる素質」であり、「可能性を発揮し活動させる能力」といえる。こういう和声的能力、いわゆるものごとを論理的・概念的に思考したりより柔軟な可能性を追求したりする能力の原型は、聴感覚からくられる構造様式を綿密に組み立て、和声の現実性と効用性を判断する概念認識として働くのである。その概念を手がかりに、調和声の特質を考えてみよう。
 序章 _「和声の変遷 p.10」、「教会旋法の推移 p.14 」、「中世・ルネッサンスの和声_概要 p.24 」の各資料からも判るように、そもそも長短両音階は西洋音楽の生成過程における起源的体系ではないのである。それらは起原的で不動の存在ではなく、歴史上において多種多様な音組織的概念のシステム融合によって生成された過渡的概念の一つである。


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* 由来証明 *


 ところで、従来の音楽基礎理論はごく最近にいたるまで、長・短音階の両音組織が「西洋音楽の出発点」であると説明していた。しかし、これが単なる仮説でしかなかったことは明らかである。この説明は、一切の歴史性を無化するがゆえに、実践的実在すなわち古典的なものから得られるすべての実体が否定され、閉じられてしまったものとなる。古典派和声様式以前の_中世・ゴシック・ルネッサンス、バロック_モンテヴェルディ・J.S.バッハの創出した構造特性を検証分析すれば、長・短音階は音組織の概念におい根源的な基本概念ではなかったのである。単なる長短音階の音組織による古典和声を切り取り、それを枠組を基本的前提とする命題であるといって論述したとしても、それが「古典和声の根幹を説く」ということにはならないのだ。個々の言明はもちろん、規則主義が押しつける観念論や限定・制約そして例外も事実の経験的検証作業によっていつかは偽になるかもしれない。したがって、和声学基礎論の情報をめぐる概念認識に、原理的にも、それに始まりそれに起因するという大きな誤りをまねいたといってよい。
 西洋18世紀_調和声の創出基盤の本質は、伝統的な音組織_教会旋法、旋法を集約した音組織_長・短音階と半音階、音程・3和音と7の和音に象徴される各機能を共存させた複合構造である。新旧の要素と技法が互いに関係し合う統一的全体という画期的な実践によって、そこには、音楽文化社会に現われた調的概念の歴史的な経緯、それに対する人間の第一義的な感覚能力(共通感覚)を基盤にして、先行した時代の遺した諸条件の上に歴史を創造していこうとする思惟過程が存在する。

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 実証的研究では、伝統的実在の概念化を目指して、旋法和声をはじめとする伝統的実在の定義を、第一資料の分析や総合など様々な角度から行っており、その根源的実在の認識と歴史的変容の考察とを合わせることにより、音組織の生成および集約についてより深く知る試みを行っている。バロック和声の様式特性は、6つの音組織が共存するもの、それらに加え2つの音組織のどちらかに集約されるものが個々に存在する。実践的実在によって多様である。
 さて、調和声_バロック和声の理解に向けて、新しい音組織への集約を目標としたJ.S.バッハのアプローチを検証してみよう。


  1. 旋法の2極化 p.304


  (1) 教会6旋法の集約

  教会 6 旋法は、2つの旋法に集約される。導音化、変ロ音化および和音性質変化が・・・


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* 和声学基礎論 *




 p.305

  長音階と短音階の生成過程:

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    Direction1) 上記の事象現象の和音素材を示したものがp.71~p.73の表となる。

    D2) 教会旋法の推移 p.14 ~p.15 の内容は、「和声学が和声学となるための基となる条件」である。

    D3) 教会旋法と和声法_ p.12、中世・ルネッサンスの和声−概要_p.24 に記載された「和声概念の歴
       史的な経緯」を把握しなさい。
    D4) その歴史的概念、下記の1)~4) の過程を検証分析する。

 古典和声の分析が常に人間の思考によって行われているとなれば、分析はすべて何らかの歴史・文化・実践的事実と関わりをもっている。しかも、それは分析する人間が枠組とする対象によっても方向づけられている。それは私たちが一般的に古典和声と考えているような対象、つまり「音楽の実体と機能性について分析者がもっている考え」そして「その根底に横たわる分析者の調構造に対する歴史観」のことである。


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    Question) 1) → 4) の順に従った過程で、旋法和声が調和声の方向にシフト
          されていくプロセスが分かるだろうか?

       例

          G dorian : ▶ G aeolian : ▶ G minor
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 譜例に示された [ (a) → A_教会旋法の集約. (b)→ B_経過導音和音. (c)→ C_変ロ音化. (d)→ D_段落・終止法] の歴史的な変化発展の過程は、和声の理論体系に関わる構造認識の、あるいは和声学の専門知識のイロハを意味するものにほかならない。こうしたバロック時代の作曲家が構築した「和声構造(前提的諸条件)」の上に、古典派・ロマン派の「より柔軟な和声構造」が創造されてゆくのである。



    [ N. B. 1 ]

            「 和声法 - 旋法転移:」
 
               ・教会6旋法とその転移 p.65

            「 和声法 - 原和音と変化和音:」
 
               ・変化音 p.70

            「 和声法 - 導音カデンツとその転移:」

               ・原和音によるカデンツ p.80
               ・導音和音と導音カデンツ p.81
               ・導音カデンツの転移 p.82

            「 和声法 - 段落・終止法:」

               ・和声的傾向 p.93 _ Dorian :
               ・段落: p.94   _ Dorian : 正格終止 転移正格終止
               ・終止:
               ・掛留 p.96

            「 和声法 - 段落・終止法:」

            「 和声法 - 変ロ音化:」 p.109

    [ N. B. 2 ]

         「 3) 、 4) 」の和声構造は同じ内容である。J.S.バッハは3) のように「転移記
         号_ p.65, p.307 」 を用いることもあるが、上記のコラールは当時の新しい記譜
         法4) に示した調号 _ p.308」を用いて楽譜作成している。


    D4) その観点から、p.335_3) / Act Gott, vom Himmel seih' darain の和
       声を分析。

            1) 音組織
            2) 変化音
            3) 終止和音
            4) 段落・終止和声の構造特性
            5) カデンツ番号
            
            6) 調

    D5) 譜例_バッハ・コラールの段落・終止和声において「導音が長3度下行す
       る構造特性」をマークしなさい。

    D6) なお、これらの詳しい検証分析は、後出の「8, 旋法和声の継承と変容」の
       <理論演習>において実施する。





  (2) 全音階と半音階 p.306

  全音階
   a. 長音階
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   b. 短音階

    自然短音階

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    和声短音階

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    旋律短音階

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  半音階

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  p.307

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  音階音の名称


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  (3) 長調と短調 p.307

       長調と短調の音体系が形成される過程は、p.304~305 に説明がある

  (4) 多種の転移記号と調号

       音階転移の起源的ツール:

     a. 転移記号

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         ♭ / 1個の例             2~4個の例    ♯ / 1~2個の例
 
                                    ・
                                    ・


    [ N. B. ]

         ♯ / 3個の例は p.357 譜例 188.

       転移記号システムを基盤にした音階転移のためのツール:
 
     b. 調号 308

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    理論演習 P.309

    D1) 「集約的音組織_長・短旋法」を確認しよう。

    D2) 集約の要因となった現象はどのような和声法によるものなのか、旋法和声
       の伝統的な構造特性に該当する譜例を指摘しながら説明してみる。

         たとえば、p.109 譜例 72. など ......


    演習1

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    演習2 p.310


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    D3) 「伝統的音組織_教会6旋法」に注目。


    演習3

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    鍵盤演習 p.311

    演習


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 「調」を判断するとき、私たちは音楽一般の調を正確に判断することはできない。あるのは唯一、楽典の知識、つまり長調と短調だけである。楽典の知識_実際の音楽「歴史的・実戦的実在」から切り離され、そのなかで考えたり、感じたり、表現したりする、この長短両調を全体の中心としての調を判断するよりほかに「調」を知る道がないとしたら、その意味ではまったく「一般性」に欠けているといえよう。
 
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 J.S.バッハは、全音階の綿密な分離結合の思索を積み重ねるうちに、新旧概念のシステム融合という独自の視点から音組織のあり方を見なおすという発想を得たにちがいないが、それはどのような見方であろうか。
 彼はその組織を伝統的存在論という「旋法的な実在性」を再構成し、その実践によって根源性の「存在」への通路を復原している。長音階はもちろんであるが、たとえば「旋律短音階」は、構成単位の中で隣接して_Dorian(上行)とAeolian(下行)_の「旋律的要素」が、また、「和声短音階」は、Dorianにおいては_変ロ音化と導音化_、Aeolianにおいては_導音化_という「作法的要素」が表出される音組織である、と認識していたことが検証される。



# by cantus-durus | 2020-01-27 15:39 | 1. 旋法の2極化/J.S.バッハ