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Study Guide 2
Basic Desk Front - Information ⑤ Introduction (序章) W.A.Mozart-1.~2. W.A.Mozart-3.~4. W.A.Mozart-5.~6. W.A.Mozart-7.~8. L.v.Beethoven-1. L.v.Beethoven-2. L.v.Beethoven-3. L.v.Beethoven-4. L.v.Beethoven-5. L.v.Beethoven-6. L.v.Beethoven-7. R.A.Schumann-1. R.A.Schumann-2. R.A.Schumann-3.~4. R.A.Schumann-5.~8. J.Brahms-1. J.Brahms-2. C.A.Debussy-1. C.A.Debussy-2. C.A.Debussy-3. C.A.Debussy-4. C.A.Debussy-5. C.A.Debussy-6. C.A.Debussy-7. Postscript(後記) ReferenceData
St.Augustine, Confessions Anicius M.T.S. Boethius, De institutione musica Flavius.M.A. Cassiodorus, Institutiones Anonymous, Musica enchiriadis Anonymous, Scholia enchiriadis Bartolome Ramos, Musica practica Heinrich Glarean, Dodecachordon Gioseffe Zarlino, Instituzioni armoniche Thomas Morley, A plain and Easy Introduction to Pratical Music Vincenzo Galilei, Dialogo della musica antica e della moderna J. P. Rameau, Traite de l'harmonie J. J. Rousseau, Lettre sur la musique francaise Charles Koechlin, Traite d'harmonie Edmond Costere, Mort ou Transfigurations de L'harmonie Knud Jeppesen, Counterpoint Paul Henry Lang, Music in Western Civilization Carl Parrish and J.F. Ohl Masterpieces of Music Before 1750 H. M. Miller, History of Music Donald Jay Grout, A History of Western Music Hermann Keller, Das Wohltemperierte Klavier von J.S. Bach Werk und Wiedergabe Peter Bastian, Ind I Musikken Vincent Persichetti, Twentieth Century Harmony Diether de la Motte, Harmonielehre Katharine le Mee, The Origins, Form, Practice, and Healing power of Gregorian Chant Hugh Trevor-Roper, PRINCES AND ARTISTS Patronage and ideology at Four Habsburg Courts Pierre Boulez, penser la musique aujourd'hui Kevin Bazzana, GLENN GOULD The Performer in the Work 検索
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2012年 02月 27日
![]() さて、理論的・論理的な矛盾のひとつの例を示そう。 音楽理論の歴史において、人間が創出する和声のことを何でも解きあかそうとして、なぜそれが可能となったのかという問いを発することが和声学の始まりだといわれる。これは、和声学とは理論的にしかも論理的に何でも明らかにして説明しようとするものである、という意味である。そのためには、私たちは「大作曲家たちの創意工夫はプログラムできないものである」という言動を慎む必要がある。なぜなら、検証を拒否する知識には事実に近づくのを妨げる偏った見解があるからだ。 _ こうした検証を拒否する知識や偏見によって、 たとえば、 J.S. バッハ _ Messe、Chorales、 モーツァルト _ Symphonie No.41 "ジュピター" 、 ベートーヴェン _ Violin Sonata No.5 "春" 、 マスネ _タイスの瞑想曲、の和声の事実には、 規則違反あるいは禁則となる不快な響きがあり、 それは古典音楽にはあり得ない例外・不可となってしまうのである _ この偏った見解が、意識的に、ルールが古典音楽や一般的な音楽においてさえ「基本的基準」であると見せているのである。このことは、虚構的テクストとしてのルールの地位を主観的に示す論述を通してだけでなく、現代の理論家が旧態理論の批判として論じているように、規則主義的認識とその過程、すなわち一切の多様性・変化性を排除する一元化、概念の外延に関わる定義であるにもかかわらず、自己意識的な正誤判断、さして実体論的思考のないような非現実的な分類を通して行われている。したがって、それは理論と演習ともに多数の実体の結合・分離という「和声の仕組み」を理論的・論理的に説明したものではないのが事実である。 「規則違反あるいは禁則・不快な響き、古典音楽にはあり得ない例外・不可である」が与えるのは、けばけばしい事実からの逃避であり、閉ざされた演習の使用価値を離れれば、何の価値ももたない。経験する実体が存在しないなら、それらは死んでおり、文化の面から破壊的である。古典の客観的実在性の直接的・間接的な否定は、無邪気な誤りで済まされるものではないからである。それらを、それだけで妥当性のあるものとして扱うことは、明証化、概念化、象徴化の歪みを助長する。音楽人にとって、このような後退的規定は妥当性をもたない。それに加えもっと受け入れがたいのは、つまり理論の価値は、人間の思考活動によって生み出された音楽以外のものにより正当化されるという考えである。理論の価値を別の目的のための単なる道具と見ることは、悟性であれ理性であれ共通感覚であれ、人々の音楽の合理的経験を封じ込め偽装の論理を再演することである。そうした理論が正当化されるのは、「日本的ローカル・スタンダード」の限られた領域内においてであり、「グローバル・スタンダード」においては様々な実践的実在を放棄した便法にすぎない。実際、この検証を拒絶する理論と論理は現代の日本の音楽界を悩ませているものなのだ(客観的帰結_http://boethius.exblog.jp/i47/) 。 周知のように、日本の和声学はルールに向き、古典音楽を背にして見ないようにしてきた。それがいまなお宿題としてある。私たち人間の合理的な体験が棚上げにされる限定・制約という選択は、実践によって具体的・現実的に統一される人間の本来的な思惟と歴史的な存在とは合致していない。一義的な概念を固定化する定義はもう限界に来た。この奇異を通り越す概念規定はよく知られた意図的な事実隠しの問題にも関係している。旧態の概念硬直したルールを放置する一方で、次の世代が将来背負う理論的矛盾に眼をつぶれば、機能理論への不信はさらに高まり古典和声学を維持するのが難しくなる。だが、かつて我が国の音楽界には、規則禁則の妥当性を正面から問うこともせず、また自らが事実の証明に用いている対象と認識方法を明らかにすることもなく、「和声学は限定・制約に準じる以外に選択肢はない」の言説を繰り返している。それゆえ、公理_限定進行・規則・禁則というルールを遵守していない和声構造はすべて美的不正であると主張して、古典音楽がもつ多様性を逃れ、何ごとも無批判に従う日本人の思考に合わせた「理論と演習」を提示する規則主義者がいた。 「和声とは何であるか」という問題を捉える認識論において、我が国のあるメディアの理論解説者が、理論に関わる書籍評のなかで「歴史上の大作曲家たちは、このルールに従って曲を書いたのではない」と、わざわざ注意を呼びかけているように、そうした概念的方向とその視点は自明であり常識化されている。ルールは本来的和声学としての役割から外れていること、あるいは、少なくとも事実の論述に還元できない架空の定義であることを認めたのである。それはまさに西洋音楽における和声的事実全体の問題を論じる場合、基本的認識にほかならない。私たちがこのような一般原理を理論の問題に対して当てはめてみるなら、つぎのような事実が分かってくる。すなわち「古典における和声の特性を保全しようとする限り、そこで観察される実体そのものはすでにルールの支えなしに成立していたのである」。 ![]() にもかかわらず、他方で「古典という概念そのものを俯瞰できなくなっている考えを、概念的に「西洋の古典音楽としての正しい和声のあり方」として概念規定することは妥当なのだろうか? その実践的実在という、実体を例外視する概念化が理論的に矛盾していることは明らかである。こうした矛盾は事実をルール化する際の対象と認識基準とのセマンティカルな問題であり、理論構成の意味においても概念の象徴化においても和声学は歴史的実在を枠組としているからである。 古典の様式とは、人間が歴史上において獲得したものであり、綿密な知識とノーマルな聴感覚に裏打ちされた検証を通じて人間を豊かにする経験の対象である。そうした現実の古典の経験は、理論の基本的象徴と本質的概念となるものである。理論がその認識根拠と概念規定で古典と結ばれているのは個々の音楽理論家の生きた経験や検証があるためである。とするなら、古典隠しの理論は,裏を返せば古典壊し(恐し)の理論となる。私たちがたとえ事実排除の疑似的概念(ルール)を擁護しまた援用したとしても、それはあくまで演習のための便宜上の手段にすぎない。だから、なんらかの音現象を古典和声と認めるためには「事実であるもの」と「事実ではないもの」を前もって区別しておく必要がある(古典和声の検証_http://glarean.exblog.jp/i18/) 。 一般的な検証作業が理論を強くするのである。 音楽理論は、従来神の啓示をもって最高の認識と考えた中世的知識論あるいは無謬の神話から成り立つものではない。神学的な教典でもない。他の命題の証明を曖昧にした和声学は、一歩を誤ると、自己批判的機能を失った単なる先例主義に堕する恐れがある。多種多様な音列や進行はすべての音楽に決定的な役割を演じているのに、その中のひとつを取り上げ「これが古典における正しい和声のあり方である」を定義することがいかに困難かは容易に察しがつくことである。ある様式の中に概念が一つしかないというようなことは決してあり得ない。それどころか概念には個々の様式や事象ごとに様々なあり方が可能である。事実、ルールによってつくられた典型的な思考形態である規則主義は、文化的に熟知された様式特性と食い違う問題点を解決していないために古典の和声的事実全体を確保できなくなっている。ほかのことはさておいて、厳めしい律儀な超越的思弁を、また、事実の単純な論述に還元し得ない愚直なルールを基本的基準とする目的を喪失させてこそ、和声学は和声に関する分析データを手に入れることができる。 メディア・アクセスが発達している現代社会においては情報を隠すのは難しい。 逆に情報不足によって学問的不安を生みかねない。日本の機能理論においては、規則禁則という形而上学的な仮定を執拗に振りまわす認識論が放置されたままであり、言ってみれば、思考の対象とする認識論の起源と古典の実践的事実を理解しようとしない説明的思惟は、実は人間的実質を犠牲にすることによってのみ可能な擬似和声に依存した無内容な概念規定によるものである。多様化する理論の知識環境に対して、その構造認識は鈍感で貧弱になる。この方法で古典和声が求められる時、遂には知る権利に発していないこと分かってしまう。その背後にはバッハ、モーツァルト,ベートーヴェンのような自由はあってはならないとの「あきらめ」がある。結局のところ、規則主義者は前提と基本概念の問題を論じながら、事実の隠ぺいを正当化する既成の理論と論理に戸惑いを覚え次第に追い込まれていった。 理論家たちの実践的な関心を惹くに値する事実のすべては、彼等が選ぶ構造の認識基準とその検証プロセス次第である。理論構築においては歴史書と同じようにあらゆる事実を示すようなことはできない。これはなにも古典的な事実を挙げていったらそれこそ論述スペースが足りなくなるという理由からではない。そうではなく、そもそも事実を再生する最終的な真理とか事象を定義する一義的なルールなどというものは決して存在しないのである。 和声学は歴史という織物の中で人々を共感させた象徴概念を学ぶために存在する。 象徴概念はひとつの自立した事象である。それは伝承され成長し続ける。象徴は未来におけるいまだ実現されていないものに向かって現実を乗り越えるという構造を有している。つまり、人間は象徴概念によって現実に働きかけその現実を変えていくのである。その概念は、知の累積的な進歩を生み出すためにも、また追試可能なものとなり納得のいく言説を生み出していくためにも必要とされるものであろう。とはいえ、規則主義的基準の登場によって認識と存在における発展的法則の矛盾は解決されたといわれながら、従来から疑問とされてきた知識の可能性にかかわる問題を相変わらずかかえ、眼目となる概念の動的な形成過程において、その内包を明らかに与えるための確かな認識方法を取得できないでいる(バロック和声と古典派和声_http://rousseau.exblog.jp/i14/) 。 とすれば、私たちは次の三つの包括的な検証結果を自らに提出する必要がある。古典すなわち芸術作品における和声構造の認識根拠とその過程に関する検証である。他の命題の演繹の基礎となる「公理定理」は、事実に適合しない不合理な概念規定から解放されているのか? 特定した「古典」とは何を指し、「正しい」とはどのような方法で見い出された認識基準なのか? いずれにせよ、シンボル的な理論においては、人間的表出の開放性をとらえるために欠かせない古典の直接的な解析、さらには実証的研究のもたらす実践的課題との取り組みに対して無関心でありながら、「バロックから、古典派、およびロマン派初期までの和声を体系的に学べる理論構成である」のアイデンティティは、ルールがつくりだす時代遅れの理論状況をあらわにする。 今日、従来の19世紀的な認識根拠とその過程を引きずる和声学は、各分野から人間性の復権、認識の可能性の限界をめぐる現代的志向を背景に、知識の起源・構造・妥当性を研究する音楽理論の一部門として方法的革新を要請されており、概念の成立根拠とその過程を批判的に問いつつ、ある現象だけを一集合にまとめた特殊な概念に帰することなく、多くの概念を分かちもつ可視化された理論構成が求められている。もちろんそういった構成には課題はいまなお多い。思いもしない障害が立ちはだかるかもしれない。だがそれを乗り越えることで,理論はより確かなものになってゆく。検証をさまたげる偏狭な先入観や事実からほど遠い定義に対する検討策として、歴史に関わる決定的な世界観および実践的存在と結びついた直接的な明証性を高度化させ、対象の構造認識の初段階から概念規定の実証能力を最大限投入することは不可欠である。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
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